サクラ大戦25周年が終わった。三度の舞台公演にスパロボ参戦、オーケストラコンサート、そして桜のように一瞬で散ってしまったサクラ革命と、トピックの多い一年だったと思う。この連載は残すところ二回。26周年も引き続きサクラアニメの素晴らしさを語っていきたい。
今回取り扱うのは2007年の『ニューヨーク・紐育』だ。原作は2005年に発売された「サクラ大戦V」。この「サクラV」にて、「4」までの大神一郎から、その甥である大河新次郎に主人公が交代した。舞台はアメリカに移り、マンハッタンのリトルリップ・シアターを拠点とする紐育華撃団・星組が新登場する。
監督はのちに『アイカツ!』(2012-2016)『けものフレンズ2』(2019)を手がける木村隆一。実は本作の前にあかほりさとる原作『セイバーマリオネットJ』(1996-1997)、藤島康介原作『ああっ女神さまっ』(2005-2006)にも各話の演出として参加しているので、サクラチームとは多少縁がある。脚本はシリーズ伝統の川崎ヒロユキではなく、あかほりと『らいむいろ戦奇譚』(2003)で組んだ子安秀明が担当した。
サクラ大戦V・後編
本作『ニューヨーク・紐育』は、他のサクラOVAにくらべ、原作との関係がより密接だ。これまでのOVAはゲームの外伝・スピンオフ的なものだった。一方で本作は、「サクラ大戦V」の完結編・後編とでもいうべきものだ。「サクラV」はもともと全11話(=全11ステージ)構成だったものが、開発中に8話まで削られている。この削られた3話、「エジプト編」をアニメにしたのが『ニューヨーク・紐育』なのである。
シリーズファンなら共感してもらえると思うが、「サクラV」の物語は不完全燃焼感が強い。これまでのナンバリングタイトルは、敵組織登場→散発的戦闘→敵組織との決戦→束の間の日常→真の敵が登場→最終決戦 というフォーマットを守っていた。対してサクラVでは、最初の敵にあたる織田信長一味を倒したところで終わってしまう。これまでの作品に慣れているほど肩透かし感を食らうつくりになっている。
『ニューヨーク・紐育』ではまさしく、束の間の日常を過ごしている華撃団の前に、新たな敵ツタンカーメンが現れる。つまり、「サクラ大戦V」のシナリオも、ちゃんと従来のフォーマットに則って作られていたのだ。カットされた後半がこのOVAなのである。
「サクラ大戦V」の打ち切り感はスタッフ間でも意識されていたらしく、当時のインタビューでは次回作について積極的に発言されている。しかし、「サクラV」は賛否両論の作品となり、結局続編が発表されることはなかった。だからこそ「サクラV」ファンは、実質的続編である本作を絶対見逃すべきではない。
ツタンカーメン紐育に行く
「サクラV」が賛否両論になった理由は、すでに述べたボリューム不足もあるが、それ以上にキャラがキワモノすぎたのだろう。ヒロインを見ると、暴走族兼弁護士のサジータ、年齢・性別不明の昴、なぜかキレると土佐弁になる病弱娘ダイアナなどなど。そして敵はなぜか織田信長だ、ニューヨークなのに。
このヤケクソっぷりはOVAにも受け継がれている。敵は復活したツタンカーメン。全6話を通じた主題は、主人公・大河が女装を受け入れること。ツタンカーメンと大河の間には、淡い恋心が芽生えていく。イケメン×女装男子。男の娘キャラクターが当たり前となった今なら違和感ないかもしれないが、考えてみていただきたい、これは2007年のギャルゲー原作作品なんですよ!
しかし、ほんとうにヤケクソというわけではない。ちゃんと理由がある。
まずなぜ敵がツタンカーメンなのか。彼には広井王子のアメリカ論が託されている。昔、紙不足だったアメリカにおいて、エジプトのミイラを大量に購入し、その布から紙を作ったことがあった。広井は「サクラV」の製作中にこのエピソードを知り、「呪われるぞ、この国」と思ったという。これがエジプト編の発想の源となった。
当時の[注:1930年前後の]アメリカって、歴史がないからなんでもかんでも外から持ってきて、とりあえず開けちゃう。開けちゃいけないんだよって言われているものまで開けちゃうんですよ。(「サクラ大戦V 原画&設定資料集」)
歴史の空白を他文化からの収奪で埋めようとし、そのしっぺ返しを食らっている国、それが広井の考えるアメリカだ。そしてしっぺ返をする他文化を象徴しているのが、ミイラでありエジプトでありツタンカーメンなのである。
ツタンカーメンは紐育の各所を次々と襲っていく。第1話は自由の女神、第2話は美術館。自由の女神は元々フランスのもの。美術館では、エジプト産の宝物が多数展示されている。そして第3話ではチャイナタウンがターゲットになる。明らかに、アメリカの文化交雑性がツタンカーメンの標的になっている。
そして広井によれば、過去のアメリカは現代の日本と通じる。文化的にも政治的にも独立を果たせぬまま、外のものを節操なく取り入れる。それは戦後日本の強さでもあり堕落でもある。広井はサクラ大戦1、2において、「あの素晴らしい大正時代」が続いた架空の日本を語ってみせた。その楽園を出て、現代日本のあり方を、過去のアメリカとツタンカーメンに託して描いたのが本作である。
なぜ大河は女装しなければならないのか?
次に大河の女装について。いかにも頼りがいある旧主人公・大神に対して、大河はそもそもキャラデザもショタっぽい。彼はゲーム中でも女装していて、幻の女優「プチミント」として一度舞台に立っている。
OVAでは戦闘と並行して、大河が再びプチミントになる過程が描かれる。劇場オーナーのサニーは、次回演目「クレオパトラ」の主演”女優”に大河を抜擢。舞台のために女装した大河が生前の妻・アンケセナーメンに似ていたため、ツタンカーメンは大河に惹かれる。大河も大河で、当初はイヤイヤだったものの、ツタンカーメンのためにプチミントの役割を果たそうと思い始める。
なぜ女装の話がここまでフィーチャーされるのか。それは本作が「女らしさ」の肯定をテーマとしているからだろう。
ツタンカーメンの最終的な目的は、新世界の神となる儀式を実行し、人々から感情をなくして、完全な平和を実現することにある。作中、この理想に対立するものが二つ描かれる。一つはフロンティア・スピリッツという感情に溢れたニューヨーク。そしてもう一つは感情のまま生きる女、ツタンカーメンの妻アンケセナーメンだ。
かつてエジプト王だったときのツタンカーメンも同じ儀式を計画しており、アンケセナーメンも同志であった。ただ神となった暁には、ツタンカーメン自身も感情を失ってしまう。そのことを知り、動揺した彼女は大臣たちに相談する。結果、体制を維持したい大臣たちによって、ツタンカーメンは殺害される。このことを悔いたアンケセナーメンは、正体を知られないようバステトという少女に転生し、現代に復活したツタンカーメンに仕え、神にならんとする彼を支援する。しかし結局、物語のクライマックスでツタンカーメンを裏切り、彼を人間にとどめようとする。この通り、アンケセナーメンは一貫性のない人物である。それはすべて、ツタンカーメンへの愛ゆえだ。
ツタンカーメンとアンケセナーメンの対比は、我々の社会に流通している「男らしさ」と「女らしさ」の対比(の一側面)を踏襲した、本作のジェンダー観を表すものと考えられる。一方にツタンカーメンが代表する、理念や正義に一貫した「男らしい生き方」がある。もう一方にアンケセナーメンが代表する、感情に衝き動かされた「女らしい生き方」がある。この二項対立を基本図式として本作を読むことができるだろう。
この二項対立図式において、紐育のフロンティア・スピリッツは、ツタンカーメンの計画に対立するわけだから、アンケセナーメンの側、「女らしさ」の側に属する。つまり前節で述べたアメリカのなりふりかまわなさを「女らしい」熱い感情の発露と捉えているわけだ。なかなか珍しく面白いアメリカ観ではなかろうか。
ツタンカーメンの理想に説得されかけていた大河も、最後には「女らしさ」の側を選びとる。アンケセナーメンに頼まれ、神になりかけているツタンカーメンに感情を戻す。ツタンカーメンにとってそれは、自らの辿った苛酷な運命を思い出す、つらい経験だ。大河は彼を抱きかかえ、その哀しみを一緒に受け止めてやる。ここで大河は母親のような役割までも演じているといえる。
つまり本作における大河の成長は、「女らしさ」を受け入れることである。だからこそ大河は、アンケセナーメンと瓜二つの容姿で、女装しなければならないのだ。
サクラ大戦冬の時代
さて、本作を最後に、サクラ大戦のアニメの制作は一旦終わる。「サクラV」の続編が出ることもなく、ナンバリングゲームタイトルは途絶える。そして2008年の舞台「歌う♪大紐育♪3」にて、サクラ大戦の全コンテンツは一旦終了することとなっていた。
2018年の「新サクラ大戦」発表まで、サクラ大戦の長い冬が始まる。
参考文献:
「アニメディア」2007年3月号
「アニメディア」2007年4月号
「アニメディア」2007年6月号
「サクラ大戦V 原画&設定資料集」
サークル夜話.zipによる幻のC98新刊、サクラ大戦評論本『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』は各委託書店・電子書籍販売サイトにて発売中。本記事を書いた新野安も編集・執筆で参加している。