「クェスを殺さなかったハサウェイ」の物語とは? 『閃光のハサウェイ』原作、映画版徹底比較

 映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の広報の中で、それが映画版『逆襲のシャア』の続きであるという情報(※)を聞いたとき、私は「え、そんなこと可能なの?」と思った。というのも、原作小説「閃光のハサウェイ」は、そもそも映画版『逆襲のシャア』から話がつながっていない、別の歴史に属するお話なのだ。だから、それはいわば一度出来上がったプラモのパーツを別のキットともう一度組み直すような作業であり、一体どうやるんだと思ったのである。

 「『閃光のハサウェイ』はもともと、『逆襲のシャア』の続きじゃないの?」と思われる方がいるかもしれない。半分正しく、半分間違っている。富野由悠季による小説版「閃光のハサウェイ」は、やはり富野による小説「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン」の続編として書かれている。これは一応、映画版『逆襲のシャア』の小説版と言っていい代物であるが、実は内容にいくつかの違いがあり、ifストーリーに近い。だから、小説版「閃光のハサウェイ」はアニメ版の宇宙世紀ガンダムの歴史に本来連なっていない作品なのである。そのために映画版『閃光のハサウェイ』は、劇場版『逆襲のシャア』につなげて矛盾しないように、小説版から取捨選択と改変が行われている。

 「知らんがな」というツッコミが聞こえてくる。ガンダムオタクが年表遊びで重箱の隅をつついていると思われるかもしれない。ところが全然違うのだ。実はこの、「ベルトーチカ・チルドレン」から『逆襲のシャア』への歴史の軌道変更は、「閃光のハサウェイ」のドラマの根幹に関わる大問題なのである。今回はその点に注目しつつ、映画版『閃光のハサウェイ』が小説版をいかに改変し、新たに魅力的な物語を作り出したか、整理してみたい。

 「逆襲のシャア」のパロディとしての「閃光のハサウェイ」

 人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになった未来、宇宙移民を率いたシャアの反乱から12年。地球連邦政府は下層民を宇宙に強制移住させる「人狩り」政策を進めつつ、官僚たちは特権階級として地球に居住していた。テロリスト集団「マフティー」は、腐敗した地球連邦閣僚の粛清を宣言、実行していく。その首領「マフティー・ナビーユ・エリン」の正体は、かつての軍の英雄であるブライト・ノアの息子、ハサウェイ・ノアだった。ハサウェイは地球降下のために乗船したシャトル「ハウンゼン」で、地球連邦軍の軍人であるケネスと知り合う。2人はシャトルに乗り合わせた美少女ギギに惹かれつつ、敵味方に別れて激突する……。

 以上が、小説版、映画版、両方に共通する「閃光のハサウェイ」のあらすじである。このお話にとって、「ベルトーチカ・チルドレン」と『逆襲のシャア』の違いがなんでそんなに重要なのか。それは、まさにその違いこそが、少年ハサウェイがテロリストになってしまう理由そのものだからだ。以下、小説版「閃光のハサウェイ」を読解する形で、その点を説明しよう。

 小説版のハサウェイがマフティーとして活動することになった理由には、彼が背負うあるトラウマが関係している。それは、シャアの反乱の際、恋した少女クェスが搭乗するロボットを、ハサウェイが自らの手で撃破し、彼女を殺してしまったことである。クェスは地球連邦軍高官の娘で、ハサウェイとも親しかったが、シャアに惹かれて彼の側に付く。クェスに会うため戦場に出たハサウェイは、結局彼女を撃ってしまった。その償いのように、小説版のハサウェイは、シャアの理想を継いでテロリストになるのである。

 この点をもう少し大きな構図の中で見ると、小説版「閃光のハサウェイ」は、実は『逆襲のシャア』(ないし「ベルトーチカ・チルドレン」)のパロディのような作品であることが見えてくる。クェスを殺した償いにテロに走るハサウェイは、ララァを殺したトラウマで反乱を起こすシャアだ。マフティーに部分的に共感しつつ現状防衛を任務とするケネスの立ち位置は、全くアムロのそれである。そして、2人の間を付かず離れずで漂おうとするギギは、死んでなおアムロとシャアを手玉に取るララァである。

 しかし、アムロとシャアが隕石を落としたり押し戻したりの大立ち回りを演じたのに対し、ハサウェイとケネスは暗殺を阻止するしないという、極めてこぢんまりした戦いしかできない。そもそも直接ロボットで殴り合うアムロとシャアと違い、ケネスが指揮官であるために、2人は直接戦うこともないのだ。英雄と動乱の血湧き肉躍る時代が終わり、その縮小再生産のパロディしか成立しない時代の哀しみ、それが小説版の「閃光のハサウェイ」でテロリストという題材によって語られたものであった。おそらくここには、59年から60年代にかけての日本の政治運動の大衆的盛り上がりが、結局70年代に爆弾闘争、ハイジャック等の孤立した小規模テロに帰結してしまった、現代政治運動の記憶も織り込まれているだろう。

 こう見ると、小説版「閃光のハサウェイ」にとって、ハサウェイによるクェスの殺害という前史がいかに重い意味を持っているかわかるだろう。そしてこれこそ、「ベルトーチカ・チルドレン」にあって、『逆襲のシャア』に存在しないシーンなのである。映画版を観た人ならわかる通り、『逆襲のシャア』では、ハサウェイ以外の人物がクェスを撃ったことになっているのだ。映画版『閃光のハサウェイ』が『逆襲のシャア』の続きになると聞いたときの私の驚きも、わかってもらえると思う。

「マフティー・エリンにブッ殺されても、文句はいえねぇ」

 では、映画版『閃光のハサウェイ』は、この困難をどう切り抜けたか。結論から言うと、クェス殺害に言及できない分、うまく別の部分を改変することで、辻褄をとることに成功している。いや、ただ辻褄をとるだけではない。本作なりの解釈を提示し、新たな作品として『閃光のハサウェイ』を輝かせることにまで成功している。これには脱帽だった。

 まず映画のハサウェイがテロリストになった理由については、クェスを殺害したことを持ち出せない分、クェスがシャアに「盗られた」ことそのものをトラウマとして強調し、説得力を確保している。映画版のハサウェイは、クェスをかっさらっていったシャアへの劣等感を持ち続け、「シャアのようになる」ことを目指してマフティーの活動に駆り立てられるのだ。この点で多くの観客の印象に残っただろうシーンは、中盤、自分の元を離れてケネスに駆け寄るギギを、かつてシャアの元に走ったクェスに、ハサウェイがダブらせて回想するところだろう。このシーンはご丁寧に映画版『逆シャア』のシャア同様、馬に乗ってケネスが登場する。馬も、クェスを思い出す回想も、原作小説には存在しない。

 そして映画版において、クェスの離反それ自体がハサウェイのトラウマの核に置かれたことで、物語全体の構図も変わってくる。クェス殺害がない分、シャア、アムロ、ララァのパロディという性格は薄くならざるを得ない。その分、ハサウェイの倫理的葛藤が前に出てくる。クェスの望む自分であろうとする映画版のハサウェイは、地球を丸ごと寒冷化させようとしたシャアのように、迷いを捨て使命に殉じることのできる大人になろうとする。その一方で、青年らしいヒューマニズムを、テロというやり方への疑いを捨てきれない。シャアになりきれないのだ。

 この二つの想いに引き裂かれるハサウェイの混迷は、小説版でも描かれているが、映画版ではケネスとギギとも関連させることで遥かに印象的である。ざっくり言うと、ケネスが「シャアになろうとするハサウェイ」の象徴であり、ギギが「シャアになりきれないハサウェイ」の象徴として意味づけされていて、両者の綱引きの中にハサウェイが巻き込まれるようになっているのである。

 映画版のケネスは、小説版のケネスよりもずっと非情な軍人、迷いのない大人として描かれている。小説版のケネスは、実は何度もマフティーに対する共感を口にしている(体制内改良主義のアムロと重なる部分だ)。特に印象的なのは、ハウンゼンに乗り合わせた連邦閣僚たちの憎たらしさを目にして、「マフティー・エリンにブッ殺されても、文句はいえねぇ」と内語するところだ。

 同じセリフは映画版にも登場するが、全くニュアンスが変わっている。ギギがケネスを地球連邦の軍人と喝破した直後、やれやれという調子で述べる独り言になっているために、(閣僚を守る立場の自分がテロの標的になっても)文句は言えない、という意味になっている。マフティーへの共感のニュアンスは薄く、むしろ軍人としての任務への忠実さを感じさせる。その他のマフティー寄りのセリフも削減された結果、映画版のケネスはマフティーを潰すという強い意志の元行動する大人となり、敵役ではあれどハサウェイが目指すべきあり方を代表する存在となっている。

 一方でギギは、シャアを目指すハサウェイにブレーキを掛けるキャラクターだ。小説版でも彼女は、マフティーのやり方は間違っているとはっきり言葉にしていた。こうした彼女の立ち位置を映画版でさらに強化するのが、ハサウェイが買った土産物をめぐる一連のシーンだ。ハサウェイは街でマフティーの仲間と会話した後、追手を逃れるために(おそらく)不法地球滞在者がやっている土産物屋に入り、適当に買い物をする。これ自体は小説版にもある描写である。

 ただ、映画版ではこの土産物が明確に時計であると描かれ、さらにその後何度も示唆的に登場する。例えば、ハサウェイがケネスの下から去るシーンで、戦闘に巻き込まれて壊れてしまった時計を、ケネスはどうせ要らないだろうから執務室に置いて行っていいと促す。この直後ハサウェイはマフティーに合流しテロを再開する。つまり時計は、それを置いていくことによってハサウェイがマフティーに変わるもの、ハサウェイの良心である。その後、ケネスがハサウェイを軍人になりきれない、と評するシーンで、置いていかれた時計にフォーカスが当たるのも同じ意味だ。そして本作のラスト付近、この壊れて止まった時計を修理するのがギギなのだ。だから映画のギギは、ハサウェイの良心を直す存在であり、同時にクェスが去った瞬間で止まってしまったハサウェイの時間を、もう一度動かす存在なのである。

ギギとケネスの物語へ

 このようにして映画版『閃光のハサウェイ』は、クェスの殺害という小説版にとって重要なイベントに言及できないハンデを、数々の改変によって見事にカバーしている。カバーどころか、大人になりきれないハサウェイの葛藤に主眼を置くことで、小説版よりもずっと普遍的で明快なドラマとしてまとめることに成功しているのだ。

 本作はあくまで三部作の第一部として位置付けられており、時計が動き出して終わっているのは、まだ物語が起動したばかりという意味合いも含まれているだろう。ハサウェイは自らの良心と、クェスへの執念とにどう決着をつけるのか。また、プロデューサーの小形尚弘は、第二部はギギ、第三部はケネスの話として位置付けていると語っている(「富野由悠季と宇宙世紀」)。とすればこの後、ギギやケネスが抱える葛藤もまたクローズアップされ、ハサウェイの物語とダイナミックに影響しあうような描き方も予想される。もちろん、小説版が設定した大枠はすでにわかっているけれども、ここまで見事な脚色を見せられれば、新作を待つような気持ちで期待せずにはいられない。

※ただし小形プロデューサーがいくつかの媒体で語るところによれば、基本的には映画版の続きだが、「ベルトーチカ・チルドレン」の要素も取り入れていくとのこと(「ガンダムエース」2020年5月号など)。実は本作ではクェス殺害と矛盾するシーンも注意深く排除されていて、「ベルトーチカ・チルドレン」と時系列をつなげられるようにもなっている。

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新野安
新野安(あらの・いおり)。1991年生まれの兼業ライター。サークル「夜話.zip」にてエロマンガ評論本を編集・執筆するとともに、『ユリイカ』『フィルカル』『マンガ論争』に寄稿。サクラ大戦のファンでもあり、2020年に『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』を発行した。推しはアイリス・ロベリア・昴・初穂・舞台版アナスタシア。