サクラ大戦25周年を勝手に応援!「アニメで究めろサクラ道!」04:『サクラ大戦 活動写真』 「劇場版」、この御しがたきもの

 この記事を書くにあたり改めて観直してみたのだが、『サクラ大戦 活動写真』(2001)の印象は初めて観たときと変わらなかった。劇場版だけあって、作画は美麗でよく動く。しかし、85分付き合った末のラストは、狐につままれたような印象を残す。いちおう話は終わっているはずなのに、なんか話が終わっていない気がする、奇妙な映画なのである。

 ではなぜこういう印象を残す映画が生まれたのかというと、そこには「劇場版」と名に付く企画のうち、ある種のものが構造的に持っている困難が隠れている。本作『活動写真』は、「劇場版」というものに課せられた宿命を、極端な形で背負ってしまった作品なのだ。その意味で本作の問題点を検討することは、普遍的な問題を検討することにつながる。

劇場版オリジナルキャラクター問題

 舞台は帝都、時期はゲーム「サクラ大戦3」が終わった直後。隊長不在の帝国華撃団に、アメリカから新隊員のラチェット・アルタイルがやってくる。戦闘も歌劇もハイレベルにこなす彼女は、実はアメリカの兵器製造会社「ダグラス・スチュアート社」の社長・ブレントが放ったスパイであった。ブレントは自社の無人兵器・ヤフキエルでもって帝都防衛の任を華撃団から奪わんと、政治的策謀を巡らす。はたして帝国華撃団は苦境を切り抜けられるか……。

 さて本作、最後まで観ると、いちおうブレントの陰謀は破られ、ラチェットと花組は和解して、話は終わっている「はず」である。それでも、オチがついてそうでついてない、少しついている(?)印象を残してしまうのはなぜか。

 ズバリ言って、ラチェット関連の説明が決定的に不足しているのだ。これは私がラチェット贔屓だから言っているのではない(ラチェット贔屓なのは事実だけど)。ラチェット関連のシーンが足りないことによって『活動写真』は、いくら絵的に優れていても、人間ドラマが非常に物足りない作品になってしまっているのである。

 そのことを説明する前提としてまず、ライターの古川耕が「劇場版」というもの一般について指摘したある論点を、私なりに言い換えつつ紹介したい。

 一般に、原作(TVドラマシリーズ、アニメシリーズ、ゲームetc.)付きの劇場版というのは3種類に分けられる。原作のストーリーを語り直すもの(ex.『機動戦士ガンダム』劇場3部作や『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』)、原作のストーリーの一部を劇場版にしたもの(ex.『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』)、そして、原作から独立したサイドストーリーを語るもの(ex.劇場版クレヨンしんちゃん)。このうち最後のタイプは、内容のある人間ドラマを語ることが難しい。なぜならドラマを展開しようとすれば、否応なく劇場版の中でキャラクターが変化してしまう。そうすると、原作でのキャラクターのあり方と齟齬をきたしてしまうのだ。

 古川曰く、この問題を解決するために導入されるのが「劇場版オリジナルキャラクター」である。劇場版ではオリジナルキャラクターをドラマの中心に据え、原作のキャラクターたちはあくまでサポーターに徹する。変化成長するのはあくまでオリジナルキャラクターである。こうすることで、原作のキャラクターの印象に介入することなく、劇場版でドラマを語ることが可能になる。

 古川の図式を『活動写真』にあてはめてみよう。本作もまた、メインのゲームシリーズに対する外伝的な位置付けの作品だ。そして花組の面々は、サクラ大戦1・2・3と3作のストーリーを経て、もうすっかり成長しきっている。彼女らを中心に新たなドラマを作るのは難しい。そこで新キャラクター・ラチェットを登場させた。このように解釈することができるだろう。

 ここまでを前提として、本作最大の問題は、本来ドラマを牽引すべきだったラチェットに関して、決定的に描写が不足していることにある。いちおうラチェットと花組が分かり合えましたみたいな終わり方にはなっているけれど、過程や詳細が飛んでいるので、あらすじだけ読まされたような鑑賞感なのだ。そしてラチェットしか人間ドラマを担えなかった以上、この映画全体のドラマが弱い、ということになってしまっているのである。

『活動写真』、このシーンが足りない!

 具体的に不足しているシーンを3つ挙げよう。

 まず1つ、ラチェットがスパイとして何をしていたのか説明するシーンが足りない。本作では最終盤で唐突に、ラチェットがダグラス・スチュアート社のスパイだったことが明かされる。けれどもスパイとしてラチェットが何をして、それにより花組がどう困ったのか、全く説明されない。具体性がないので、さくらがラチェットの罪を許す感動的なはずのラストに、いまいち気持ちがついていかない。

 次に、ラチェットがなぜスパイとなったか、そしてなぜスパイをやめる決心をしたのか、心情を描くシーンが足りない。かつてエリート部隊「欧州花組」のリーダーだった彼女が私企業のスパイに成り下がったとしたら、何か理由があってしかるべきだ。単に「スパイだったラチェットが許される」現象面だけではなく、その奥で彼女が抱える心の問題が何で、それがどう解決したのか。その点がはっきりしないので、人の成長を描けていない。

 最後に、ラチェットがブレントと直接対峙するシーンが足りない。煎じ詰めれば本作は、ブレントに利用されていたラチェットが、彼の陰謀を脱して正義を取り戻す話であった。だからラチェットとブレントとの対立関係を追い詰めなければならない。にもかかわらず本作では、ラチェットとブレントが直接対峙する場面がほとんどない。序盤でブレントからラチェットへ指示が下されるとか、終盤でラチェットがブレントに反旗を翻すとか、そういうシーンが必要なのに、ないのである。

削られた35分の行方

 ではなぜ、あって当然のシーンが存在しないのか。これについては、はっきりとした理由がある。もともと存在したのに、削られてしまったのだ。

 本作はもともと、120分の映画として作られていた。しかし、製作途中で角川アニメ4本立ての企画に組み込まれ、『あずまんが大王』『スレイヤーズ』『Di Gi Charat』の映画と同時上映されることになる。それゆえに上映時間を85分に削らざるを得なくなり、ラチェットのシーンが削られたのだ(後年の爆音上映での横山智佐の発言に基づく)。

 いやちょっと待て、と本編を観た人は思うかもしれない。もっと削れるシーンあったんじゃないのか? たとえばおよそ5分間にわたって続く冗長なロボット発進シーンや、本筋と無関係な花組の日常シーンなどと比べれば、ラチェット関連のシーンをこそ残すべきなのではないだろうか。

 広井王子はそうは考えなかった。上映当時のインタビューによると、彼は本作をお祭り映画として位置付けていた。整合性やドラマを度外視しても、ゲームで省略したメカ設定を描いたり、あるいは全キャラクターに見せ場を用意したりすることを重視していた(「ニュータイプ キネマ画報」)。広井のこの発言を現在の視点から読むと、ドラマや整合性は二の次とする発言の裏で、ラチェット関連のシーンの脱落が念頭に置かれていたというのは、いかにもありそうなことだ。

 まとめるとこうなる。『サクラ大戦 活動写真』が単独の映画として成立するには、新キャラクターであるラチェットをフィーチャーしなければならなかった。その一方で、サクラ大戦ファンに対するサービスとして、既存のキャラ・メカも積極的に登場させたい。この2つの要求を満たすことがただでさえ難しい中で、角川アニメ同時上映という企画に組み込まれ、枠組み自体が狭められてしまう。その結果本作は、人間ドラマがありそうでないアニメになってしまったのである。

 そしてこれは、原作付き劇場版というものが宿命的に抱える構造でもある。単独の映画として成立させるためのオリジナル要素の充実、ファンサービスのための既存要素の拡充、そして「大型興行」としての作品外事情。3つのベクトルのバランスを取る至難の作業、これに奇跡的に成功したものが傑作となり、当然に失敗すれば駄作が生まれる。戦隊やライダー・プリキュア・コナン・ドラえもん等玉石混交の劇場版についても、同じようなことは言えるだろう。

『サクラ大戦V』へ、物語は続く

 単独の作品としては『活動写真』は成立していない、と私はここまで論じてきた。しかし客観性をかなぐり捨ててサクラファンとしての本音を言えば、せっかく推しキャラのラチェットが銀幕で活躍する本作をただ斬って済ませるのでは、自分に我慢がならない。そこで最後に、サクラ大戦シリーズのうち、ラチェットが登場する2つの関連作品を紹介したい。これらを『活動写真』と合わせて観ると、欠けているシーンが補われ、ラチェットのドラマが初めて完結するようになっている。

 1つは川崎ヒロユキによる本作のノベライズ版だ。同作では、短縮された際カットされたと思しきシーンが再収録されている。ブレントとラチェットが接触し、ラチェットが帝国華撃団の情報を売り渡すシーンも具体的に描かれる。またラチェットがスパイに成り下がった理由が、将来設立される紐育華撃団のリーダーにしてもらうためだったことが明かされる。彼女は欧州星組リーダーでありながら、星組の解散を防ぐことができなかったことをトラウマとして抱えており、その苦しみから逃れるためにブレントの甘言に乗ってしまったのだ。

 そしてもう1つは、ナンバリングゲームシリーズ「サクラ大戦V」の第1話だ。時を経て紐育華撃団の隊長になったラチェットは、自分の霊力の低下を感じつつ、新造チームをまとめようと悪戦苦闘している。そんな彼女のもとに、主人公の大河進次郎が派遣されてくる。同話のクライマックスは、新人ながら真っ直ぐな性格の大河に可能性を感じ、ラチェットが独断で隊長権限を譲渡するシーンだ。これこそ、『活動写真』以来抱えてきた「自分がリーダーでなければならない」というプライドから、ついにラチェットが解放された瞬間なのである。

 というわけで、ノベライズ版と『サクラ大戦V』と合わせて初めて、『活動写真』は完結する。この大きなラチェット・ストーリーを前提にすれば、銀幕対応の美麗な作画で描かれたラチェットの活躍を観るにしても、より気持ちが入ろうというものだ。何度も書いてきたように、『活動写真』は単独でおすすめできる作品ではない。それでももしあなたがすでにサクラ大戦沼にどっぷりと浸かっていて、私のようにあらゆるサクラ作品をできる限り愛するという覚悟をすでに決めてしまっているのならば、是非以上2作と合わせて鑑賞してみてほしい。

サークル夜話.zipによる幻のC98新刊、サクラ大戦評論本『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』は各委託書店・電子書籍販売サイトにて発売中。本記事を書いた新野安も編集・執筆で参加している。

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新野安
新野安(あらの・いおり)。1991年生まれの兼業ライター。サークル「夜話.zip」にてエロマンガ評論本を編集・執筆するとともに、『ユリイカ』『フィルカル』『マンガ論争』に寄稿。サクラ大戦のファンでもあり、2020年に『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』を発行した。推しはアイリス・ロベリア・昴・初穂・舞台版アナスタシア。