サクラ大戦25周年を勝手に応援!「アニメで究めろサクラ道!」03:『サクラ大戦TV』シリアルエクスペリメンツ サクラ

 サクラ大戦シリーズには、ファンの中でも賛否両論別れる作品がいくつかある。2000年に放映された『サクラ大戦TV』はその筆頭と言っていいだろう。……いや「両論」といっても、「否」の意見が90%ぐらいだと思う。いわゆる「原作レイプ」的作品とされることが多い。

 私はといえば「賛」も「賛」、なんならサクラ大戦アニメの最高傑作なのではないかとすら思っている。今回は、この問題作『サクラ大戦TV』を楽しむための見方を解説してみたい。

暗くて地味なサクラ大戦

 なぜ本作が問題作になったのか。確かに、原作からの大胆な改変は多い。よく話題に上るのは、メインキャラ・アイリスの性格変更だ。ゲームではおてんばわがまま娘だったのが、ぬいぐるみにしか話しかけられない超内気な子になっている。他にも、衝撃的な悪堕ちでゲームプレイヤーに(性的)トラウマを植え付けたあやめが特に裏切らず終わるとか、相違点はいろいろある。

 しかし私は、そういう具体的な設定改変は枝葉末節に過ぎないと思う。本作が批判を巻き起こした、本質的な理由は別にある。大きく二つにまとめよう。

 一つ目の理由は、快楽の絶対量が不足していることだ。第0回でも述べたように、サクラ大戦は80年代の快楽主義的なオタク文化をパワーアップして受け継いだ作品だ。しかしTV版のサクラ大戦は、「楽しい」とか、「痛快」とか、その種の感情を引き起こすことが極度に少ない。ゲーム版と正反対で、非常に禁欲的なアニメなのである。

 たとえばサクラ大戦の「楽しさ」を支える要素に、個性的なヒロイン同士の賑やかな会話劇がある。しかしTV版の花組は、アイリス以外も含めて、コミュ障ぶりがすごい。言いたいことをきちんと説明せず、ムスッとした顔でその場をやりすごそうとする。職場としては最悪である。見ている方まで胃が痛くなってきそうだ。

 あるいはピンチをチャンスに変え難題を解決する、そういう「痛快」にも乏しい。例えば第5話、地図にない怪しい建物に敵の反応をキャッチする花組。出撃すべきか、罠を警戒して待機するか、意見がまとまらない。しかしそこに司令官・米田が孤立しているとわかるや、全員が現場に急行するのだった。感動的な展開である。敵を倒してめでたしめでたし、でいい。なのに結局、花組は練度の不足を露呈し、惨めな敗北を喫してしまうのだ。こんなふうにTV版サクラ大戦は、問題が一つ解決しかけると別の問題が出る構造になっていて、カタルシスが不足している。

サクラ大戦が間違って伝わる!

 二つ目の理由は、歴史的な事情だ。前回述べたように、TV版サクラ大戦は「サクラプロジェクト2000」というシリーズ展開構想に組み込まれていた。他にこのプロジェクトに属する作品を列挙してみる。

・新ハード・ドリームキャストにて、「サクラ大戦2」の後、巴里に渡った大神一郎を描く「サクラ大戦3」
・OVAにて、「サクラ大戦」「サクラ大戦2」のサイドストーリーを描く『サクラ大戦 轟華絢爛』
・劇場映画にて、「サクラ大戦3」直後の帝国華撃団を描く『サクラ大戦 活動写真』

 どうだろう、TV版の位置付けが見えてこないだろうか。既存作の延長線上にあるストーリーを、ハードルの高い媒体で綴る上記の作品群に対して、元祖サクラを見やすいメディアで語りなおすTV版は、初心者にサクラ大戦のなんたるかを教育する「入門編」になることを期待されていたはずだ。のみならずその役割は、ファンにとって一目瞭然だった。

 ところが実際に放送されたのは、ゲーム版の精神性を冒涜するような、とにかく暗くて地味なアニメ。これじゃあ、サクラ大戦の良さを伝えることはできないよ……。そういう歴史的事情ゆえのガッカリが、TV版の悪評に寄与している面も大きいと私は考えている。

広井王子に直談判

 考えれば考えるほど、無難にゲームをなぞるアニメになるのが当然の企画。なぜここまで挑戦的な内容になったのだろう。ズバリ、中村隆太郎という強烈な個性があったからだ。

 中村隆太郎は90年代からゼロ年代にかけて活躍したアニメ監督。代表作はなんといっても、1998年に放映された伝説のデジタルオカルトホラーアニメ『serial experiments lain』だ。謎が謎を呼ぶストーリー、ディスコミュニケーションが重なる会話描写、そしてインターネットが精神と肉体の区別のない新世界を作るという、予言的かつ世紀末的なビジョン……攻めに攻めた内容の同作は、文化庁メディア芸術祭で賞を獲得し、現在でもカルトアニメとして熱心なファンがついている。中村が『lain』の後、『COLORFUL』(1999)を挟んで2000年に監督したのが『サクラ大戦TV』だった。

 「サクラ大戦TV ロマンアルバム」に収録された広井や中村のインタビューを読むと、いかにサクラ大戦にとって中村が異物だったかよくわかる。中村によれば、彼がプロジェクトに入った当初、既に数話分のシナリオは出来上がっていた。中村はその内容をよしとせず、アレンジして提出するも、差し戻されてしまう。中村は諦めず、独自案に基づいて1話の絵コンテを勝手に切り、それを元に広井に直談判する。広井は中村の印象を「頑固」だと語り、打ち合わせはお互いの主張の着地点を探るようなものだったと言う。結局ゴーサインが出て、中村案の方向性で作品全体の青写真が出来上がる。

 ちなみに本作には「シリーズ構成」がクレジットされていない。さらに、7、8話の脚本を担当した金巻兼一のWebサイトによると、1クールで川崎ヒロユキや金巻を始めとする初動時の脚本家は全員降板、一度も中村と会うことはなかったとのこと。一方で、中村も序盤の3話を除き、演出・絵コンテへのクレジットがない(最終話もクレジットなし)。おそらく制作体制にはある程度混乱があり、中村を含め、誰もが自分の意図を反映し切れなかった作品ではあるのだろう。とはいえ、序盤話数に顕著に現れる「暗さ」「地味さ」を前提に後の話数も展開されており、当初の中村案は結構な影響力を持っているように思う。

今だからこそ見直して欲しいTV版

 さて今となっては、「サクラプロジェクト2000」での位置付けなど気にする必要はない。また初代サクラリメイク作も、PS2版「熱き血潮に」、漫画版、小説版などいろいろ並んでいて、互いに相対化する素地がある。『サクラ大戦TV』を、「中村がなにをやろうとしたのか」という観点から見直すこともできるはずだ。

 先のインタビューで中村は、OVAやゲームとは違うTVならではの構成を心がけたと述べている。ゲームはプレイヤーが物語を補ってくれる。OVAは1話ごと単品で見られる。TVアニメは、シリーズ全体として作り込んだドラマを提示しなければならない、というのだ。26話全体で大きな問題解決の構造を作るのなら、シリーズの途中ではつねにマイナスを抱えざるをえない。(問題→解決)×Nではなく、問題×N→大解決という、『lain』を引き継いだ物語構造がこうして帰結する。途中で切り取ればカタルシスが決定的に不足している、というのも『lain』と同じだ。

 また中村は、他の要素を捨ててでも、花組の人間関係の成熟を描きたかったと語る。もしも「花組がチームになるまで」だけに焦点を当て、26話の長大なドラマを作るのなら、当然ゲームよりもそのスタート地点はずっと前になるはずだ。だから、とてつもなく感じの悪い花組が出来上がる。ひたすらに場が重い会話描写も、『lain』の主人公家族の気まずーい感じを彷彿とさせる。だが最終的に花組は、チームとして固く結束する。この巨大な落差があるからこそ、感動も大きくなるのだ。

 そして最終話まで見れば、本作はきっちり「サクラ大戦」としても成立している。ラストバトル、「ゲキテイ」をバックに、花組がラスボスへ必殺攻撃を連発するシーン。見事な連携に、サブキャラの椿が思わず発する「まるで舞台を見ているみたい……!」という一言は、歌劇団=華撃団ならではの名文句だ。長いトンネルを経たからこそ感じられる、このでたらめな高揚感は、サクラ大戦以外のなにものでもない。

 サクラらしさと中村の作家性が、衝突しつつ高め合って生まれた異形の傑作。令和の今ならそんな再評価もできるはずだ。まだ見たことのない人も、昔見て微妙に思った人も、ぜひ『サクラ大戦TV』にチャレンジして欲しい。途中つらくても、最終話まで頑張って!

サークル夜話.zipによる幻のC98新刊、サクラ大戦評論本『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』は各委託書店・電子書籍販売サイトにて発売中。本記事を書いた新野安も編集・執筆で参加している。

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新野安
新野安(あらの・いおり)。1991年生まれの兼業ライター。サークル「夜話.zip」にてエロマンガ評論本を編集・執筆するとともに、『ユリイカ』『フィルカル』『マンガ論争』に寄稿。サクラ大戦のファンでもあり、2020年に『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』を発行した。推しはアイリス・ロベリア・昴・初穂・舞台版アナスタシア。