かねひさ和哉の「フライシャー大解剖」 第6回フライシャー作品の日本での公開と受容

 現在では後年(1960年代以降)後追いのアニメーション・ファンによって再評価された印象の強いフライシャー作品だが、公開当時から概ね大衆からも好意的に受容されていた。それは日本でも同様で、特に1930年代初頭はベティ・ブープというキャラクターの人気も相まって批評家からも高い評価を獲得していたのである。一時はディズニーをしのぐほどの人気を獲得していたと思われる、フライシャー作品の日本での公開と受容の過程について着目していきたい。

 フライシャー兄弟が製作に携わった作品の日本での公開は、ブレイ・スタジオ時代にまで遡る。1925年の「活動写真フィルム検閲時報」にて、既にブレイ・スタジオで制作された『インク壺の外へ』シリーズが数本日本に輸入されていたことが確認できる。また「日本映画事業総覧 昭和2年版」では、インクウェル・スタジオが1923年に制作した教育映画『Evolution』が『進化の歴史』として松竹系封切館の帝国館で上映されていた記録が記されている。マックス・フライシャーというプロデューサーが認知されていたかどうかはともかくとして、作品自体は比較的早い段階から日本で受容されていたのである。

 サウンド映画時代が到来すると、日本の映画館でもパラマウント社が組んだ映画プログラムの一部として「発声漫画」、すなわちフライシャー・スタジオのサウンド付きカートゥーンが劇映画やニュース映画の添え物として定期的に上映されるようになった。ディズニーのシリー・シンフォニーやミッキーマウスと並んで人気を博していたのが、フライシャーのベティやポパイであった。特に1930年代初頭の日本におけるベティ人気はすさまじく、「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉に象徴されるような時代の流れに迎合したフライシャー作品は、大衆からも批評家からも強く支持されていたといえる。

 映画批評家の双葉十三郎は、1932年に雑誌「新映画」にてベティ・ブープ作品の面白さとして「エロティシズムの横溢」や「スピイドの快感」「音楽的快感」といった点を挙げていた。現在アニメファンがフライシャー作品を楽しむ際に着目しているポイントを、双葉は既に抑えていたのだ。一方で双葉は「パラマウント色がここに迄滲んでいる」「発声漫画はかかる流行的なものはすべて摂取する」とも評している。フライシャー兄弟の作品としてではなく、パラマウント社の漫画映画として評価しているのである。まだこの時期における漫画映画はあくまでも映画会社が抱える添え物としてみなされていたことが窺えるが、それほどまでにフライシャー・スタジオのカートゥーンは流行に敏感な、同時代性の高い作品だった。

 では、当時流行の最先端の音楽だったジャズをサウンドトラックに導入したり、ミュージシャンを積極的に作品に出演させたりするなどといった「同時代性の高さ」は、フライシャー・スタジオが単独で編み出した要素だったのだろうか。実は、決してそうではない。本連載の第2回で、1930年代のフライシャー・スタジオは配給会社のパラマウント社と深い関係にあったことについて記した。実はこの同時代性の高さこそが、パラマウント社の援助と介入によって成立していた要素だったのである。

 次回は、パラマウント社とフライシャー・スタジオの関係と、それを背景として成立していた様々なフライシャーの「挑戦」について特集する。

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かねひさ 和哉
2001年生まれの現役大学生ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱く。2018年より開設したブログ「クラシックカートゥーンつれづれ草」にてオールドアニメーションの評論活動を始める。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行う。