かねひさ和哉の「フライシャー大解剖」 第7回パラマウントとフライシャー

 1929年にインクウェル社から離脱したフライシャー兄弟は、新たな本拠地であるフライシャー・スタジオを設立する上で自身のアニメーション作品の配給会社であるパラマウント・ピクチャーズ(以下パラマウント)と重要な契約を行っていた。株式や作品など、様々な権利をパラマウントが所有することを設立時に取り決めてしまったのである。(第2回参照) これによりフライシャー・スタジオは後々崩壊の危機に晒されてしまうのだが、一方で、この業務提携によってフライシャー作品に様々な新風が吹き込まれることとなった。

 パラマウントは、自社が権利を所有している楽曲の自由な使用と、自社の長編・短編映画に出演契約をしていた俳優やミュージシャンの作品出演をフライシャーに対して許可していた。これにより、キャブ・キャロウェイやミルス・ブラザーズ、ルディ・ヴァリーやルイ・アームストロングといったアーティストたちの実写出演が実現したのである。また、マニー・ベーア率いるパラマウントお抱えのオーケストラが作品にジャジーで快活なサウンドトラックを提供した。こうした関係性が実現したのは、パラマウントが権利を所持している楽曲をフライシャーの作品内で使用させることによって、映画や楽曲の宣伝が期待できると考えたからなのかもしれない。

 パラマウントのスタジオへの介入がフライシャー作品に与えた影響は、サウンドトラックのみに留まらない。『ビン坊の踊る摩天楼(The Dancing Fool)』(1932)では、パラマウントが1930年に製作した実写のレビュー映画『パラマウント・オン・パレイド(Paramount on Parade)』を直接オマージュしたと思しきシーンが挿入されている。またベティ・ブープのモデルとなったヘレン・ケインは、歌手として活動する傍ら、パラマウントのミュージカル映画に女優として出演していた。『曲馬団のベティ(Boop-Oop-A-Doop)』(1932)や『ベティのタイピスト(Betty Boop’s Big Boss)』(1933)などの作品においては、ベティのフラッパー・ガール的な側面が強調されており、ヘレン・ケインからの直接的な影響が見られる。

 フライシャーとパラマウントの関係性は、後にスタジオの主であるフライシャー兄弟にとって大きな痛手となってのしかかってきた。1942年にフライシャー・スタジオが倒産した際、スタジオの経営権や作品の著作権が丸ごとパラマウントに乗っ取られ、フライシャー兄弟は23年間にわたって築き上げてきたすべてのものを失ってしまったのだ。この出来事は、マックス・フライシャーの人生に大きな影を落とした。パラマウントに自身のスタジオだけでなく作品やキャラクターの権利までも奪われた晩年のマックスは、老いて衰弱していく中、自身の作品の権利を取り戻すために老体に鞭を打って奔走していたのである。

 では、フライシャー兄弟とパラマウントの業務提携は破滅の道へとつながる第一歩に過ぎなかったのだろうか。決してそうではない。フライシャー・スタジオが魅力的なサウンドトラックを手に入れ、技術的にも規模的にも大きな発展を遂げたのは、パラマウントの財政的援助と協力があったからこそなのだ。

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かねひさ 和哉
2001年生まれの現役大学生ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱く。2018年より開設したブログ「クラシックカートゥーンつれづれ草」にてオールドアニメーションの評論活動を始める。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行う。