もしも14歳の少年少女たちが、ある日を境に一生14歳のままに閉じ込められて、未来とか夢とか広い世界とか、前向きなもの全てと縁を切って生きていくとしたら。彼らはどんな「思春期」を、どんな「青春」を過ごすのだろうか?『アリスとテレスのまぼろし工場』は、そんなマッドサイエンティストの(あるいは悪いオタクの)思考実験のような映画である。
主人公の正宗、ヒロインの睦実を始めとして、見伏という田舎町の住民が、製鉄所の事故をきっかけに、町の外に出れなくなる。それだけではなく時間も止まって、「1991年」から出られなくなり、身体も成長しなくなる。そして……これは大きなネタバレなので、後で書くことにしよう。とにかく住民たちは、空間、時間、〇〇と、三重の「閉じ込め」を食らって生きることになる。
少年少女たちの閉塞感をどんなふうに具体化するのか、本作はディテールのチョイスが卓越している。以下、その見事さを「ゲーム史」「匂い」という二つの観点から論じてみたい。結果として、監督・岡田麿里が設定した実験の意義を明らかにできるはずだ。(試写の記憶で書いているので、細かい間違いがあったらすいません。)
「ストII」を知らない少年たち
製鉄所の事故が起こり作中の時間が止まるのは1991年1月。バブル景気の崩壊が始まった年、ジュリアナ東京が開業した年。でも、舞台が田舎町なので、誰もが想像する「バブルらしいバブル」の描写はない。ドイツ統一(1990)や湾岸戦争危機(1990-1991)といったニュースもない。
とはいえ、一見地味なディテールにきちんと時代が刻まれている。一例として、主人公たち男子中学生グループが遊んでいるゲームに注目したい。
国道沿いにスナックの自販機を集めた休憩所があって、そこには小さいゲームコーナーも作られている。正宗たちはそこをたまり場にしているようで、主人公たちがシューティングゲームを遊んでいるシーンが、作中チラっと出てくる。
1991年とはゲーム史においてどんな年だったか。「ストリートファイターII」の発売年である。
世界初の本格的格闘ゲームとして、1991年3月に「ストII」は稼働開始した。またたくまに流行は広がり、「ストII」の類似品として他社の格闘ゲームも次々発売されるようになる(SNK「餓狼伝説」など)。80年代後半のシューティングブームはここに90年代格闘ゲームブームへとバトンタッチされ、ゲームセンターの風景は大きく塗り替えられた(石井ぜんじ「グレート・セブン・ゲームズ」などを参照)。例えば駄菓子屋の店頭にも格ゲーの筐体が設置されていた風景が、マンガ「ハイスコアガール」などで描かれている。
『アリスとテレス』原作小説によると、主人公の正宗はゲーム好きとのことだ。1991年1月で時間が止まることがなければ、この休憩所か、せめて隣町くらいのゲームセンターに「ストII」が設置され、正宗もプレイできたのではないか。しかし、彼はその後やってくるゲーム業界の大変化を経験することなく、90年以前のシューティングゲームを永遠に遊び続けるしかないのだ。同じゲーム好きとしては同情を禁じ得ない……。
つまり主人公たちがシューティングゲームを遊んでいる何気ないシーンをとっても、実は「1991年1月に閉じ込められた少年少女」という本作のメイン・ギミックが見事に表現されている。そして、バブルや湾岸戦争といったわかりやすい時代状況を描くよりも、新しいゲームを遊べないということの方が、本作のやろうとしている実験――思春期の男女を思春期に閉じ込めること――にとっては遥かに重要な変数なのだ。
以下、重大なネタバレを含みます!
中盤、時間的空間的にのみならず、主人公たちが「虚構」の中に閉じ込められていたという衝撃的な事実が明らかになる。この見伏は虚構の見伏であり、外には現実の見伏がある。外から迷い込んだもう一人のヒロイン・五実を除いて、街も人も、主人公もヒロインも、全て「まぼろし」にすぎないのだ。
現実の五実と主人公たち虚構の人物の具体的な差として、「匂い」の有無が言及される。私見では、この「匂い」というチョイスが重要だ。
「匂い」がない存在とはなにか。アニメのキャラクターである。見た目や声はあったとしても、4DX的な上映設備がない限り、アニメキャラに「匂い」はない。実写映画だってないっちゃないが、嗅げないだけで俳優の匂いはあるわけで、それを息遣いや身体の揺れから想像できる。アニメはそういう表現や想像が比較的難しい媒体だ。つまり、匂いのない「まぼろし」とは、アニメのことだ。メタフィクションの構造が示唆されていると読める。
さらに、人の「匂い」というのは、必ずしも良いものではない。気持ち悪いこともあるし、気持ち悪いのが心地よいこともある。「匂いフェチ」という言葉もある通り、匂いは性的なものでもある。本作の監督が誰だったか思い出してみるべきだ。時に気持ち悪いほどに生々しい”身体”や”性”を、二次元のアニメキャラに持たせようとしてきたのが、岡田麿里の作品であった。
例えば、岡田の脚本作品が生理や射精といったモチーフに執拗に拘っていることは幾度も指摘されており、ある時期にアニメ評論や批評を読んでいた人にとっては”懐メロ”に属する話だ(例えば『true tears』(2008)第1話の脚本では本来主人公の眞一郎がオナニーする場面が描かれていたが、結局ティッシュ箱で鳥を作るという隠喩的な描写に変更された。「true tears memories」を参照。他にも「アニメルカ Vol.4」の岡田麿里インタビューでは、インタビュアーによって岡田の「射精・生理シーン」が列挙されている。)。さらに初監督作『さよならの朝に約束の花をかざろう』(2018)でも、メインキャラの美少女が望まぬ妊娠をしたり、長尺の出産シーンが入ったり、近親相姦的な関係性も見え隠れする。
その結果、現在『さよならの朝に~』でググると、「気持ち悪い」とサジェストされる状況になってしまった。それを知ってか知らずか岡田監督は、2023年になっても一貫して自身のテーマ(性癖、と言ってもいいかもしれない)に殉じ、それを自覚的に作品設定の、実験の根幹に繰り込んだ。「まぼろし」の具体化として「匂い」をチョイスすることには、そういう迫力がある。
「匂い」のないはずのキャラクターが、しかし「匂い」立つような生々しい”性”を感じさせる時が、本作には二つある。一つは、ゲームを遊んでいた休憩所の前で、正宗と睦実が濃厚なキスをするシーン。二つ目は、列車を車がチェイスする活劇的な見せ場を中断してまで、「未来はあなたのものよ。でも、正宗の心はあたしのもの」と、睦実が恋敵の五実に強烈な勝利演説をするシーン。
このどちらも、1シーンが長い。ストーリーが停滞している。カットするか短くすればテンポは改善したはずだ。しかしだからこそ、アニメキャラクターが綺麗にストーリーに収まる「まぼろし」であることに抵抗しようとする瞬間にも見えるのだ。
『アリスとテレス』は、わかりやすいノスタルジーや社会派的メッセージも、ウェルメイドなエンタメも、放棄しているように見える。美しい美術や端正な作画の印象に反して、異様な余韻を残す。しかしその異様さに、なにか本質的なものが露出している。そういうタイプの映画だ。いや、これはやはり映画というより、岡田麿里が自分のテーマを突き詰めるための「実験」なのだろう。