かねひさ和哉の「ターマイト・テラス物語」第2回テラスの前史

  ワーナー・ブラザースが配給し、レオン・シュレジンガーがプロデューサーを務めるアニメーション・スタジオが、精鋭たちの集う「ターマイト・テラス」に変貌するまでの過程にはいくつかの紆余曲折があった。カートゥーンの常識を根本から塗り替え、1940年代カートゥーンのトレンドを暴力的かつ過激なものに決定づけたスタジオは、はじめからその特異性を全開にしていたわけではなかったのだ。

 そもそもサイレント時代のワーナー・ブラザースは、1920年代時点で既にカートゥーンの配給に乗り出していたパラマウントやフォックスと異なりカートゥーンに関心を抱いておらず、サウンド時代の到来をもって初めてカートゥーンにビジネスチャンスを見出したスタジオであった。自社映画の主題歌や、自社が権利を所有する楽曲を効果的に宣伝する手法としてサウンド付きカートゥーンに着目したのである。ワーナーにカートゥーンの可能性をプレゼンしたのはサイレント映画の字幕カード制作業務を担っていた「パシフィック・タイトル&アート・スタジオ」の設立者であり、資金面でもワーナーと関係の深かったレオン・シュレジンガーだった。シュレジンガーはディズニーを退社してチャールズ・ミンツのもとでカートゥーンを作っていたヒュー・ハーマンとルドルフ・アイジングから新しい短編カートゥーンを売り込まれており、結果的に彼らとワーナーを仲介する役割を果たしたのである。

 かくして1930年にシュレジンガーの財政的援助のもと、ハーマンとアイジングがプロデューサーと監督を務める「ルーニー・テューンズ」シリーズの制作が始まった。翌年には音楽をより重要視したシリーズ「メリー・メロディーズ」が始まる。以降、黒人少年のボスコが主人公の「ルーニー・テューンズ」をヒュー・ハーマンが、「メリー・メロディーズ」をルドルフ・アイジングがそれぞれ制作の指揮を執るようになる。1940年代以降は実質的に区別がつかなくなった両シリーズだが、当初はディズニーの「ミッキーマウス」と「シリー・シンフォニー」に相当する差別化がなされていたのである。

 しかし、シュレジンガーとハーマン&アイジングの提携関係はわずか3年で決裂する。作品に割く予算の増額を求めたハーマンとアイジングに対してシュレジンガーは意見を曲げず、より良い制作環境を求めて二人はMGMへと向かったのだ。作品制作の大黒柱を失ったシュレジンガーは1933年に自身のスタジオ「レオン・シュレジンガー・プロダクション」を設立し(それまで作品の実制作はハーマン・アイジング・プロダクションが担っていた)、ハーマンとアイジングのもとで働いていたアニメーターたちを引き抜いて「ルーニー・テューンズ」と「メリー・メロディーズ」の制作を継続した。この際引き抜かれたアニメーターのひとりが、のちにターマイト・テラスで傑作を次々と監督するボブ・クランペットであった。

 当初は監督にウォルター・ランツやディズニーのもとで働いていたアニメーターのトム・パーマーが起用されたが十分な成果を出せずに解雇され、代わってハーマン&アイジング時代のトップアニメーターだったフリッツ・フリーレングが正式に監督に昇格する。ディズニーのコミック部門にて作画を担当していたアール・デュヴァルや同じくディズニー出身のジャック・キングも監督に登板し、彼らの手によってボスコに代わる新たなスターとして白人少年のバディが生み出された。しかし彼らの監督した作品群はアニメーションの質こそ一定の水準をクリアしているもののパンチに欠ける作品ばかりであり、強い個性と呼べるものはなかった。

 そんな鳴かず飛ばずのレオン・シュレジンガー・スタジオに変革が訪れるのは、1935年にウォルター・ランツのスタジオからテックス・アヴェリーが、その翌年にハル・ローチのスタジオからフランク・タシュリンが、それぞれ煌びやかな才能をもってシュレジンガー・スタジオへやってきた時である。彼らの才能はやがて、ほぼ時を同じくしてスタジオの音楽監督に就任したカール・ストーリングや声優のメル・ブランクの手腕と驚異的な化学反応を起こし、カートゥーンの常識を塗り替えていく傑作を生みだすようになっていく。

過去の記事を読む

Pocket

The following two tabs change content below.
かねひさ 和哉
2001年生まれの現役大学生ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱く。2018年より開設したブログ「クラシックカートゥーンつれづれ草」にてオールドアニメーションの評論活動を始める。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行う。