『ル・ヌーヴォー・巴里』(2004)を前作『エコール・ド・巴里』(2003)と見比べてみると、同じ「サクラ大戦3」が原作でも、ずいぶん違うアニメに仕上がっている。『エコール・ド・巴里』は前日譚、『ル・ヌーヴォー・巴里』は後日譚、ゲームとの関係がまず違うけれどもそれだけではない。演出の方向性が大きく違う。ゆったりした『エコール・ド・巴里』に対し、『ル・ヌーヴォー・巴里』は機関銃のようにセリフが飛び出す。速いアニメなのだ。
ただ、速いというのはお話が速いわけではない。話を進めるというより、コミカルな会話劇そのものを楽しむ作品だ。監督の山本裕介は同時期に『ケロロ軍曹』(2004-2011)の1stシーズンを手がけているが、そうしたキャラクターギャグもののアニメに近い。
具体的なシーンを見てみよう。第1話「一夜限りのサーカス」。墓泥棒事件を調査していたエリカ・グリシーヌ・ロベリアは、夜の墓場で不審者を発見する。3人は華撃団の名乗りを上げるが、実はその不審者は泥棒ではなく、花組メンバーである花火の父親だった。
エリカ「ジャジャーン!巴里華撃団、参上!」
グリシーヌ「待てよ、あの紳士には見覚えが……」
エリカ「グリシーヌさんって、墓泥棒とお付き合いがあるんですか?エリカちょっとびっくし〜!」
ロベリア「見直したぜ、グリシーヌ……」
グリシーヌ「そうではない!あの紳士は……北王子正道男爵、花火の父親だ!」
エリカ「ええ〜!花火さんのお父さんが墓泥棒だったなんて!エリカまたまたびっくし〜!」
ロベリア「そうか。見直したぜ、花火……」
グリシーヌ「お前たち、いい加減にしろ!」
わずか25秒程度にこれだけのセリフが食い気味に詰め込まれている。話を全然進めていない、その意味では無駄な会話なのだが、無駄に漫才をやっている馬鹿馬鹿しさが面白い。
映像的にもギャップが効いている。逆光の中でポーズをキメる3人を捉えた直後、背後へカメラを反転させ、照明がキツすぎて前が見えないアホらしい様子を映す。カメラポジションでツッコんでいる。ギャグをわざわざ解説するのも無粋だが、ともかくこんなふうに、確かな手腕で笑わせてくれるアニメなのだ。
グリロベ(ロベグリ?)がアツい!
先に引用したシーンについて、注意深く個々のセリフを見てみると、実はエリカ・グリシーヌ・ロベリア、3人のキャラクターが明快に表現されているのもわかる。単に笑えるだけではなく、「やっぱりエリカは天然だなぁ」「やっぱりグリシーヌは苦労してるなぁ」というふうに、キャラクター愛を満足させてくれるのが『ル・ヌーヴォー・巴里』のいいところだ。
特に、今まで冷遇気味だったキャラクターの活躍が嬉しい。第1話は、前作『エコール・ド・巴里』では担当回をもらえなかった、コクリコと花火を中心とするお話。そして第2話「メル・シー・スパイ」は、ゲームでは攻略できなかったサブキャラクター、百合メイドコンビのメルとシーが主役だ。いつもと違うデザインのメイド服や、冬物の私服、そしてセクシーなチャイナドレスまで拝むことができる。2人のファンは涙なしには見られないだろう。
また、話数としてフィーチャーされるわけではないが、グリシーヌとロベリアの間の関係性も特に丁寧に描写されている。誇り高い貴族であるグリシーヌと、露悪的でニヒリスティックなロベリアは、ゲームに続いてアニメでも犬猿の仲。しかし最終話では、華撃団のあり方についてバーで真剣に話し合うシーンもあって、2人の間に秘められた信頼関係が垣間見える。これもグリロベ(ロベグリ?)好きにはたまらない。
都市とは何か、いかにあるべきか?
ここまでキャラクターギャグアニメとしての『ル・ヌーヴォー・巴里』の魅力を語ってきた。立ちまくったキャラクターたちのやりとりは、サクラ大戦シリーズの魅力の核の1つだ。その意味で『ル・ヌーヴォー・巴里』はサクラらしさをしっかり受け継いでいる。
そしてもう1つ、シリアスなテーマ性の面でも、『ル・ヌーヴォー・巴里』はサクラ大戦らしさを継承している。具体的に言えば都市論だ。
サクラ大戦シリーズは執拗に、「都市とは何か?」という問いを問い続けてきた。「サクラ大戦1」「2」の敵であった降魔は、(作中における)現代の帝都が成立するために犠牲になった、かつての風水都市・大和の住民の成れの果てだ。あるいは「サクラ大戦3」で巴里花組が戦ったパリシィは、かつて巴里で大地と調和した生活を送っていた人々が、今のパリジャンに住みかを追われ、魔物と化した存在だった。近代化によって破壊されるスピリチュアルな調和。血生臭い争いの連鎖。華撃団は都市を巡る難問に向き合い、自らの正義を試されてきた(これについては以前、『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』で詳しく書いた)。
『ル・ヌーヴォー・巴里』もまた、悪役を通じて都市の問題を取り上げている。アニメオリジナルキャラクターのトゥールネル伯爵だ。
彼が何者なのかは、第一話冒頭の断片的回想から推測できるようになっている。1793年フランス革命のさなか、コンコルド広場での処刑大会に彼は居合わせていた。マリー・アントワネットを含む1300人以上がギロチンの錆と化した場所である。貴族の一少年であった彼はその光景に恐怖し、覆ることのない永遠の力を求め、錬金術に傾倒する。しかし強大な力を得たが故にかえって彼は疎まれ、幽閉されてしまう。そして100年以上の時を経て彼は脱出し、自らを拒否した巴里に復讐せんと策謀を巡らす。トゥールネル伯爵もまた、都市を巡る奪い合いの歴史、前近代的な霊的調和、といった観念を背負った敵であることがわかるだろう。
特に最終第3話、エッフェル塔の上でエリカがトゥールネル伯爵と巴里について話し合うシーンでは、同じテーマがさりげない演出で際立たされている。トゥールネル伯爵が巴里の犯した悪を語ると、エリカは都市とは神様が作った幸せの「器」にすぎないと諭す。すると少しの空白をおいて、まるで神か巴里が頷いたかのように、風がエリカの髪を靡かせるのだ。全体に会話のテンポが速い本作の中で、このあたりはかなりゆったりと演出され、視聴者が都市について語る二人の言葉を噛み締められるようになっている。
そういうわけで本作は、キャラのやりとりに都市論というテーマ、硬軟の両面においてサクラ大戦の魅力を受け継いでいる。「サクラ」を全3話にギュッと凝縮したアニメなのだ。
ファンはもちろん、「サクラ大戦シリーズがどんなもんか覗いてみたい!」という方にもぴったり、サクラアニメの中でも特におすすめの逸品である。
サークル夜話.zipによる幻のC98新刊、サクラ大戦評論本『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』は各委託書店・電子書籍販売サイトにて発売中。本記事を書いた新野安も編集・執筆で参加している。