OVA『サクラ大戦 神崎すみれ引退記念 す・み・れ』(以下、『すみれ』と略す)(2002)は、ひょっとするとサクラ大戦アニメの中で、もっとも「サクラ大戦」らしい一作と言えるかもしれない。というのも、「サクラ大戦」シリーズ以外で、このような作品が成立しうるとはとても思えない、そんな特異な作品だからだ。私はこれを傑作と思うが、「サクラファンにとっては」という限定は絶対に外せない。
どう特異なのか。筋らしい筋がないのである。本作はタイトルにある通り、帝国華撃団花組の一人・神崎すみれの引退を巡る作品である。作品冒頭時点で引退は既定事項となっていて、引退公演の終了までにすみれに起こる種々の出来事、例えばアルバムを見て昔を懐かしむとか、残された面々とのちょっとした会話とかを、淡々と描いていく。特に一貫した話はない。まるで一人の女優を追ったドキュメント番組のようだ。しかし、いったい架空の女優の、架空の劇団からの、架空の引退を描いたドキュメンタリーアニメというものがありうるのか。
2002年当時の「サクラ大戦」シリーズでは、驚くべきことに『すみれ』はありえた作品だったのだ。ではそれはなぜだろう。
「歌謡ショウ」という共犯関係
この作品を理解する上で、三つの重要な文脈がある。一つ目は、すみれを演じた富沢美智恵の引退。二つ目は、「歌謡ショウ」。三つ目は、2002年という時点だ。
まず、富沢美智恵の引退について。彼女は結婚を機に、2002年、サクラ大戦関連の仕事から引退することになっていた。すみれの帝国華撃団からの引退という物語上の出来事は、この現実における富沢の引退に合わせて設定されたものだった。
そして「歌謡ショウ」とは、1997年から10年間にわたって声優たちが演じた、サクラ大戦の舞台版である。2.5次元舞台のご先祖様のようなものと思ってくれればいい。「歌謡ショウ」について、いまの文脈で大事な特徴は、歌謡ショウが他メディアと緊密に連携していたこと、そして歌謡ショウがキャラと声優を同一視させるような仕組みを持っていたことだ。
サクラ大戦シリーズの作品群では、歌謡ショウがゲームやアニメと同じ世界観を共有することが強調されていた。具体的には、歌謡ショウ発の要素が他メディアに登場する越境がなされていた。例えば歌謡ショウで初登場した歌って踊れるギャング「ダンディ団」は、アニメ『轟華絢爛』でも舞台版キャストを声優として登場している。
そしてアニメ・ゲーム・歌謡ショウと虚構を重ねるだけでなく、この現実を生きる声優すら重ねてしまう。歌謡ショウは二部構成で、歌劇団に巻き起こる事件を描いた第一部に対し、第二部では歌劇団が演じる劇中劇をそのまま演じる趣向になっている。開幕前の注意パートでは、大帝国劇場の掃除担当(を演じる広井王子)が観客に、声優の名前を呼ばず、キャラの名前で声援を送ることを呼びかける。こうして観客は、声優の舞台を観劇しつつ、同時に帝国歌劇団の舞台を観劇してもいた。幕の向こうも事情は同じ、富沢や広井はインタビューで、役者とキャラクターの区別が消えていく感覚を吐露している(「サクラ大戦 OVA・MOOK」)。
『すみれ』も以上のような背景がなくては生まれえなかった。本作に登場する引退公演「春恋紫花夢惜別(はるこいしすみれゆめのわかれ)」は、2002年年始に上演された歌謡ショウにおけるすみれ=富沢引退公演と同じ題名である。さらに『すみれ』のクライマックスには、すみれがファンへ心情を吐露する長台詞があるが、この台詞は、歌謡ショウ「春恋紫花夢惜別」ですみれ=富沢が述べた引退の辞と同じである。たとえ自分がいなくなったとしても、帝国歌劇団を愛し続けて欲しいと訴えるその言葉を、ファンはすみれのみならず富沢の心情としても聞いていたはずだ。
つまり、『すみれ』は架空のキャラクターの架空の引退を描いた作品ではない。それは現実の富沢の現実の引退を描いた作品でもあるのだ。歌謡ショウに通っていたファンからすれば、演劇場で楽しき共犯関係を一時なりとも共有した人が、そこから巣立って帰らなくなるという、パーソナルな寂しさを感じさせる事件だった。
これに加えて、2002年という時点もまた、サクラ大戦にとって特別なものであった。2001年1月には、セガがハード事業からの撤退を発表していた。そして、これを受けて急ピッチで開発された「サクラ大戦4」が3月に発表される。同作はドリームキャスト最終作であると同時に、主人公・大神一郎の物語の完結作でもある。セガハードを代表するソフトであった「サクラ大戦」が、セガハードと命運を共にしたわけだ。「セガハード」の終わり、「大神シリーズ」の終わりという雰囲気が、2002年のサクラファンを覆っていた。ある時代の終わりを象徴する出来事として、ファンの中ですみれの引退はさらに重みを増していただろう。
以上のように、すみれの引退というのは、当時のサクラファンにとってフィクションを超えた切実性を持つ出来事だったのだ。だからこそ、ドキュメンタリーとして、すみれの引退をただひたすらに描くという法外な作品が成立したのである。
「トップスタア」を相対化する
さて、以上のような事情もあって、本作はとにかくすみれヨイショがすごい。すみれがいかに帝国歌劇団を愛したか。すみれがいかに潔く引き際を見極めたか。すみれがいかに花組メンバーの信頼を集めていたか。すみれがいかに観客から愛されていたか。本作はきわめて真面目に描いていく。この「誰もが認めるトップスタア」としてのすみれ像は、本作以後すみれが再登場した作品、例えば「新サクラ大戦」でも引き継がれている。
しかし、そもそもすみれはコメディエンヌだった。初代サクラ大戦の優れたリメイク作、「サクラ大戦漫画版」を執筆した政一九が指摘しているように(https://twitter.com/Masa_Ikku/status/1352589794400849920)、当初のすみれは自分のことをトップスタアだと考えている勘違い女であり、ボケ役だった。例えば初代サクラ大戦の中では、すみれが脇役や悪役をあてがわれ、「なぜ主役じゃないのか」とボヤくシーンが複数回登場する。歌謡ショウにおいても、引退までに主役を演じたのは「黒蜥蜴」だけである。むしろトップスタアの称号は、初期から花組に参加し、繰り返し主役級を演じてきたマリアにふさわしい。
おそらく、「新サクラ大戦」で自明視されている「誰もが認めるトップスタア」としてのすみれ像自体が、2002年のすみれ≒富沢引退、そして本作『すみれ』によって、後付けで作られたものなのである。ボケ役の勘違い女からシリアスなトップスタアという、すみれのキャラクター性の変化の節目に本作が位置しているのだ。
そして本作が優れているのは、この後付け的性格を自覚しているしたたかさにある。本作の終盤、引退公演を終えたすみれが大帝国劇場を出ると、群衆が道を埋め尽くしている。取材のための気球が飛び、「神崎すみれ」ののぼりを下げたバルーンが空を舞う。すみれは巨大な山車で銀座をパレードする。背後に上がる大量の花火。ああ、世界のすべてがすみれを惜しんでいる……お世辞がエスカレートしすぎて気まずいみたくなったところで、さっきまで号泣していたすみれが高笑いしつつ画面に現れ、彼女の陽気なウィンクで本作は終わる。それは愛すべき勘違い女としてのすみれの姿だ。本作はラストで、重ねてきたすみれヨイショの胡散臭さを自ら暴露し、本当のすみれを「なーんちゃって」とばかりに見せるのだ。
いやしかし、そんな陽気なボケキャラも、すみれが周到な計算のもと、周囲や観客のために演じる一種の役かもしれない。最後にきっちりオチを用意してみせる客観性こそ、「トップスタア」たる所以なのかもしれない。シリアスなすみれとコメディなすみれ……二つが鏡合わせになって、本当のすみれは捉えきれぬまま。きっと、そんな複雑な二面性こそ、本作が描きたかった神崎すみれの魅力なのだろう。
サークル夜話.zipによる幻のC98新刊、サクラ大戦評論本『〈サクラ大戦の遊び方〉がわかる本』は各委託書店・電子書籍販売サイトにて発売中。本記事を書いた新野安も編集・執筆で参加している。