かねひさ和哉の「フライシャー大解剖」第2回サイレント時代のフライシャー作品―インク壺から広がる世界

 フライシャー兄弟のアニメーション業界でのキャリアは、1917年の兄のマックスによるロトスコープの発明と特許取得にまで遡る。ロトスコープは、実写のフィルムをガラス板に1コマずつ投射し、その実写の像をトレースすることで滑らかな動画を実現させる装置である。

 兄弟はブレイ・スタジオ(※1)にて1918年から1919年にかけてロトスコープ試作を数作制作した後、1919年から正式にブレイのもとでアニメーション・シリーズを制作開始する。これが『インク壺の外へ(原題:Out of the Inkwell)』シリーズの始まりであり、かつ20年以上に亘って続くフライシャーのアニメーション史における壮大な物語の始まりでもあったのだ。

 『インク壺の外へ』の基本プロットはシンプルである。マックスがインクをつけたペンで「道化師ココ」を描くと、紙に描かれた絵に過ぎないはずのココが生命を得る。時にはマックスと対話しつつ、ココは様々な冒険を繰り広げる。クライマックスでココは紙の外へと飛び出してしまい、現実世界を荒らし回る。困り果てたマックスがココをインク壺の中へと戻すと、物語が終わる。1919年から1929年の約10年にわたって繰り広げられたココの冒険は概ねこのようなプロットに基づいている(後期作品になると例外が頻発するが)。

 『インク壺の外へ』の面白さは、フライシャーの専売特許であったロトスコープによって写し取られたココの生々しい動きだけではない。実写とアニメーション、すなわち現実と虚構の境界線を悠々と越境して暴れ回るキャラクター、物体のメタモルフォーゼが次々と起こる奇妙で不安定な世界観。不気味だが不思議と心地よい映像は、きっと現代の観客の心も惹きつけてやまないだろう。アニメートの精度こそサウンド化以降のフライシャー作品には及ばないが、奇抜なアイデアや度肝を抜く演出には、きっと時代を超えて観客を驚かせる力が備わっている。

 ブレイ・スタジオで成功を収めた兄弟は、1921年にブレイから独立し、自身の会社を設立する。アウト・オブ・ジ・インクウェル・フィルム社(Out of the Inkwell Films)の誕生である。この時期になると有能なアニメーターがスタジオに集まってくるようになる。1923年にスタジオに入社したディック・ヒューマーはその代表的な人物の1人といえるだろう。ヒューマーは後にチャールズ・ミンツのスタジオへの移籍を経た上でウォルト・ディズニーのもとへ向かい、脚本や演出の面からディズニー作品を支えることとなる。

 ますます順調な成果を収める『インク壺の外へ』や教育用アニメーションの制作と並行して、兄弟は1923年に自身の配給会社レッド・シール社(Red Seal Pictures)を立ち上げる。そこで歌詞の上をボールが跳ねて、歌詞を誘導するというカラオケの先駆け的なアイデア「バウンジング・ボール」を使用した『ソング・カーチューン(原題:Ko-ko Song Car-tunes/ Song Car-Tunes)』シリーズを制作。このシリーズの一部はド・フォレスト社のサウンドシステムであるフォノフィルムを使用した、トーキー作品として作られた。有名な『蒸気船ウィリー(原題:Steamboat Willie)』に先駆けること約4年前のことである。また、レッド・シール社は実写のコメディ作品も制作していた。商才に欠けていたと語られることの多いフライシャー兄弟だが、この時期は積極的に事業の拡大に乗り出そうとしていたのだ。

 しかしレッド・シール社は業績不振に陥り、1926年に倒産。配給会社を失ったインクウェル社は、アルフレッド・ウェイスという人物の仲介の下でパラマウント映画と契約を結ぶ。1927年に『インク壺の外へ』シリーズは『インク壺小僧(Inkwell Imps)』と改題されたが、作品の基本的なプロットや趣向はほとんど変わっていない。この時期に制作された『ココの地球操縦(Ko-Ko’s Earth Control)』は、奇抜な撮影とアイデアが素晴らしい視覚効果を生んだ、サイレント時代におけるフライシャーの最高傑作である。

 ウェイスはインクウェル社の代表となり、社名もインクウェル・スタジオ(Inkwell Studios)へと改名。実質的にスタジオを乗っ取ってしまう。これに不満を抱えた兄弟は1929年にインクウェル社から離れ、パラマウントと契約した上でフライシャー・スタジオ(Fleischer Studios)を設立した。フライシャー・スタジオはパラマウントと契約を交わす上で、株式や作品をはじめとする様々な権利をパラマウントが所有することを取り決めてしまった。フライシャー・スタジオが、パラマウントの子会社と化した瞬間であった。フライシャーが離脱した後にウェイス率いるインクウェル社はまもなく倒産したが、『インク壺小僧』シリーズのラスト数作は兄弟離脱後のインクウェル社が制作したと考えられる。

 ブレイからの独立、配給会社の倒産、パートナーとの不和とビジネス面では紆余曲折を経ながらも、フライシャー兄弟と彼らのもとで働くスタッフたちは、1920年代を通じて独創的な作品を生み出し続けた。そして、1929年のフライシャー・スタジオの設立は、奇しくもサウンド時代の到来と重なっていた。宣伝映画『トーキー漫画の出来るまで(Finding His Voice)』の制作を皮切りに、フライシャー・スタジオはサウンド化の波に乗り始める。次回は、サウンド化に際して行われたフライシャー・スタジオの変革について特集する。

<参考文献>
宮本裕子『フライシャー兄弟の映像的志向 混淆するアニメーションとその空間』水声社、2020年
リチャード・フライシャー『マックス・フライシャー アニメーションの天才的変革者』作品社、田栗美奈子 (訳)、2009年
レナード・マルティン『マウス・アンド・マジック:アメリカアニメーション全史(上)』楽工社、権藤俊司(監訳)、2010年
Cabarga, L. The Fleischer Story (Da Capo Press, 1988)
Pointer, R. The Art and Inventions of Max Fleischer: American Animation Pioneer (McFarland & Company, 2017)

※1
J・R・ブレイが1910年代から20年代にかけて経営していた、アメリカにおける商業アニメーション産業の基礎を築いたスタジオ

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かねひさ 和哉
2001年生まれの現役大学生ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱く。2018年より開設したブログ「クラシックカートゥーンつれづれ草」にてオールドアニメーションの評論活動を始める。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行う。