かねひさ和哉の「フライシャー大解剖」 第5回フライシャー・スタジオに在籍していた精鋭たち

 アニメーションの産業史を語る上で生じがちな問題だが、スタジオの経営者やプロデューサーの名前ばかりが有名になり、その配下で作品を作っていたスタッフたちの名前は忘れ去られてしまうことが多い。今日フライシャー・スタジオについてアニメーション愛好家が言及する際、取り沙汰される人物はもっぱらスタジオの代表者であるマックス・フライシャーとデイヴ・フライシャーだけである。

 「監督」であるデイヴ・フライシャーの名前は知っていても、「作画担当」としてクレジットされたウィラード・ボウスキーやシーモア・ネイテルの名前を知る者はどれほどいるだろうか。フライシャー作品は決して兄弟の力のみで形成されたのではなく、数多くのスタッフの熱意と努力によって生み出されていたことを我々は知っておく必要がある。

 一般的にフライシャー・スタジオの作品では、ほぼ全作に「提供」としてマックス・フライシャー、「監督」としてデイヴ・フライシャーの名がクレジットされている。ではデイヴが制作統括や演出の全てを担っていたのかというと、決してそうではなかった。実際にはその後表示される「Animation(作画)」としてクレジットされているアニメーターが演出に相当する役割を担い、単なる作画マンとしての役割を超えて作品制作に大きな役割を果たしていたのである。

 サイレント時代のインクウェル・スタジオ(フライシャー・スタジオの前身)では主にディック・ヒューマー、シド・マーカス、ヴァーノン・ストーリングズ、テッド・シアーズ、ローランド・クランドルといった若いスタッフたちがしのぎを削っていた。

 彼らの多くは後にディズニーへ移籍し、様々な部門で多大な貢献を残すこととなる。シアーズは1931年にディズニーに移籍し、30年近くにわたってストーリー部門で堅実な仕事を続けた。スターリングスもディズニーにおいてストーリーや演出に深く携わり、ヒューマーはアニメーターとしても、ストーリーマンとしてもディズニーで素晴らしい能力を発揮した。後に輝かしいキャリアを手にする彼らがまだ若かった頃のアニメーションに対する純粋な熱意が、この時期のフライシャー作品には宿っているのである。

 サイレント時代の中心的な人物だったヒューマーたちが様々なスタジオへ一斉に移籍した後のフライシャー・スタジオでは、新たに入社したベテランアニメーターのグリム・ナトウィックの指揮のもと、より若いスタッフが集まるようになった。

 ジャズに傾倒し怪奇趣味の描写に長けていたウィラード・ボウスキー、パースの効いた端正な作画を持ち味としたシーモア・ネイテル、確かなデッサン力をもって説得力のある作画をものとしたデイヴ・テンドラー、可愛い動物を描くことに長けていたマイロン・ウォルドマンといった面々である。

 これまでに挙げたスタッフたちは長期にわたってフライシャー・スタジオに残留していたが、比較的短期間でフライシャーから離脱し、華々しいキャリアを送ったアニメーターもいる。先に挙げたナトウィックをはじめ、シェイマス・カルへイン、アル・ユーグスター、バーナード・ウルフは後にディズニーに移籍し、『白雪姫』『ピノキオ』などの作品で素晴らしい功績を残している。カルへインやナトウィックが手がけたフライシャー作品は非常に独創性に溢れたものが多く、フライシャー黄金時代を大きく支えたスタッフだったといえる。

 作画だけではなく実質的な監督の役割まで果たした、フライシャー・スタジオを実制作面で支えた彼らの名前が現在半ば忘れ去られているのは非常に悲しいことである。フライシャー兄弟の功績は確かに偉大だが、彼らが経営していたスタジオの功績を全て「兄弟」の名のもとに還元してしまってはならない。「兄弟」のもとに集った、無数のスタッフたちのたゆまぬ努力によって作品が形作られていたことを覚えておくべきだろう。

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かねひさ 和哉
2001年生まれの現役大学生ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱く。2018年より開設したブログ「クラシックカートゥーンつれづれ草」にてオールドアニメーションの評論活動を始める。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行う。