かねひさ和哉の「フライシャー大解剖」 第4回サウンド時代初期におけるフライシャーの改革②―奇抜なユーモアセンス

 「アニメーションとサウンドの融合」に並ぶサウンドが付けられた初期のフライシャー作品の大きな特徴として、無軌道かつ奇抜な、独自のユーモアセンスが挙げられる。

 1930年代初頭、フライシャー・スタジオはブロードウェイ1600番地、すなわちニューヨークのど真ん中に社屋を構えていた。そしてフライシャー兄弟自身、幼少期よりニューヨークで育った生粋の都会っ子であった。スタジオで働いていた多くのスタッフも、兄弟と同様にニューヨーク育ちであった。スタジオの作品に、「都会的」な、ややもすれば雑多で狂騒的なユーモアセンスが反映されていることに何の疑問があろうか。

フライシャー作品のユーモアセンスは、(いささか安易な方法だが)同時期のウォルト・ディズニー作品と比較してみることでその特異性が明らかとなる。『しあわせうさぎのオズワルド』や『ミッキーマウス』といった初期ディズニー作品には一貫したストーリーラインがあり、ギャグやキャラクターの行動もプロットの筋に沿って展開していく。アニメーションはあくまでも物語の状況や展開を観客に伝えるための伝達手段なのであり、監督による緻密なコントロールによって成立するのである。

 しかし1920年代から1930年代初頭にかけてのフライシャー作品には、一貫したストーリーラインがある作品はほとんど存在しない。大まかな舞台設定とテーマだけが決められており、そのシチュエーションに沿ったギャグが配置され、アニメーターがそのギャグを自由に作画しているのである。このような構成なので、オチも当然投げやりになることが多い。多くの場合、メタモルフォーゼやダジャレ、擬人化といったネタが多用される。犬がホット“ドッグ”になり、郵便ポストがキャラクターに話しかける、といった具合だ。『ベティ博士とハイド(Betty Boop, M.D.)』では薬を飲んだ赤ん坊が猛烈なスキャットを歌いながらみるみるうちに化け物へと変貌し、画面がアイリスアウトして作品が終わる。『ベティの屋上庭園(Betty Boop’s Penthouse)』ではベティが化け物に香水を吹きかけると、化け物が踊りながら花に変身して、画面がアイリスアウトしてしまう。しかもこうした投げやりなギャグが異様なスピードで展開されるため、不思議なグルーヴ感が醸し出されている。

 フライシャー作品の「意味不明」だがどこか惹きつけられるユーモアには、アニメーションの原初的な快感が多分に含まれている。サウンドという強力な武器を獲得することで、フライシャー作品はアニメーション界のドラッグとも言うべき危険な快感を放つようになったのである。テックス・アヴェリーやハンナ&バーベラの作品のように一つ一つのギャグにロジックを持たせているわけでもなければ、ディズニー作品のように観客に一貫した物語を伝えようとする意志もない。ただそこにあるのは雑多で狂騒的な、しかし確実に観客を愉快な気持ちにさせるギャグと躍動するアニメーションなのである。その奇抜なセンスは、作品の公開から90年近く経過した現在も、多くのアニメーションファンの心を惹きつけてやまない。

 次回の連載では、フライシャー・スタジオに在籍し、後にアメリカのアニメーション業界で大きな業績を残すことになるアニメーターたちについて特集する。

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かねひさ 和哉
2001年生まれの現役大学生ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱く。2018年より開設したブログ「クラシックカートゥーンつれづれ草」にてオールドアニメーションの評論活動を始める。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行う。